右肩上がりの昭和
町野町唯一のスーパーマーケットであるもとやスーパーは、戦後間もない昭和21年(1946年)に本谷庄治が商店を立ち上げたところから歴史が始まります。
戦後の混乱期、物があれば売れる時代に商いをはじめて、お店はどんどん大きくなっていきました。
創業から15年後の昭和36年(1961年)には「有限会社もとや庄治商店」として会社になりました。
この時代は町野町の人口も多く、商いは右肩上がりでした。

創業当時の様子を伝える写真も紹介したかったのですが、津波ですべて流されてしまいました
人間関係を大切にした平成
昭和のおしまい頃から平成の最初にかけて(1980年代~1990年代初頭の「バブル」と呼ばれていた時代と重なります)、マイカーが普及するとともに、市街地に大型ショッピングセンターができて、町野町の人たちも市街地で買い物をするようになっていきました。
もとやスーパーの客足は減り、一時は破綻するかどうかというところまで追い込まれました。
安さや品揃えでは市街地の大手スーパーに勝てません。そこでもとやスーパーが取った戦略が、「人間関係を大切にする」でした。
お客さんとのコミュニケーションを大事にして、町の人一人ひとりのことを家族と同じくらい理解していく。お客さんとの距離の近さを強みにする。そんなふうにしていました。
だから、誰がどういう人で、誰と仲がいいのか。どんな過去があってどんな苦労をしてきた人なのか。そういうこともちゃんと分かっています。

また、フットワークよく配達にも行きました。
もとやスーパーは町野町で唯一のスーパーマーケットです。都会に比べて交通網の発達していないこの町では時に買い物に出るのが大変なこともあります。そんなときにはこっちから行ってしまう。このやり方もまた、「家族と同じような距離感でお付き合いする」というもとやスーパーの在り方の象徴とも言えます。
値段もさほど安くできない。品揃えも市街地のスーパーには及ばない。それでも買い物に来続けてくれた人たちは、私たちが大切に思ってきた「人間関係の近さ」を同じように大事にしてくれて、魅力を感じてくださっていたのだと思います。買い物に来続けてくれた恩は忘れることができません。
被災によって生まれたMOTOYA Base構想で、新しい未来へ
2024年の能登半島地震と奥能登豪雨は2000年に一度の大災害とも言われています。
町野町も立て続けに被災して、2000人いた人口が800人になりました。
もともと町野町は20年後には人口が800人に減少することが予測されていました。
二度にわたる災害は、20年後に来る予定だった人口800人という姿を、急に今日の現実にしてしまいました。
そうなると今までと同じ形の商いは続けられません。
この窮地でまとまったのが「MOTOYA Base構想」です。
この構想を出発点にして、業態を変更して、新しい未来へ向かっていく出発点に今立っています。
二度にわたる被災は確かに大変なものでした。もとやスーパーも豪雨災害の時には店舗のすべてが流され営業ができなくなるほどの甚大な被害が出ました。
それでも、被災の経験が無かったら、緩やかに減っていく人口を見ながら、移動販売車の台数を増やす程度の施策で終わっていたと思います。被災を通じて得た経験や人との新たなつながりによって、「MOTOYA Base構想」という未来に向かう強力なアイデアがまとまりました。

金沢テレビの番組で取り上げていただき、応援していただきました。ここからまた盛り返していきたいとがんばっています(中央、右)。